日々の診療の中で、患者様が痛みや不調と向き合い、懸命に健康を取り戻そうとするお姿に、私自身も常に励まされています。本日は、私がどのようにして今の「治療家」としての道を歩み始めたのか、少し昔のお話をさせてください。
何かに本気で取り組もうとする時、時には周囲の意見と違っても、自分の信念を貫く強さが必要になることがあります。これは、皆様がご自身の体と向き合う過程にも、少し重なる部分があるかもしれません。
「当たり前」のレールを降りた1991年
私が大学卒業を控えていた1991年当時、日本は空前のバブル景気でした。世間は「超・売り手市場」と呼ばれ、学生たちは苦労することなく、次々と企業への就職を決めていく時代です。
しかし、私の視線は日本の企業ではなく、海の向こうのアメリカに向いていました。「本場のアメリカでカイロプラクティックとスポーツ医学を学び、プロのドクターになる」。その目標だけを見据えていた私は、就職活動を一切せず、周囲から見ればかなりの「変わり者」だったと思います。
ですが、周囲がどうであれ、自分が心から信じた治療の道を追求したいという思いに迷いはありませんでした。
親の心配と、自分自身の揺るぎない意志
新しい挑戦には、身近な人の心配がつきものです。渡米まで1年を切った頃、私は両親にアメリカへ行く計画を打ち明けました。
すると母親からは、「いったん日本で就職して2、3年経ち、それでも行きたかったら行きなさい」と声をかけられました。親として、息子の将来を案じる当然の言葉です。しかし、私の心はすでに決まっていました。反論することなく静かに電話を切りましたが、その時「自分の決意は誰に何を言われても揺るがない」ということを、自分自身で深く確認できたのです。
患者様の中にも、生活習慣の改善や新しい治療に取り組む際、ご家族やご友人から色々な意見を言われて迷うことがあるかもしれません。しかし、最後に頼りになるのは「絶対に良くする」というご自身の強い意志です。当時の私にとっても、その意志こそが最大の原動力でした。
執念で掴んだ片道切符。そして迎えた1992年3月
それからの日々は、アルバイト、大学での研究、そして毎朝のボディビルのトレーニングという、文字通り目の回るような忙しさでした。
自分の足で立つための「地力」を養うため、留学エージェントには頼らず、手続きはすべて自力で行いました。そして2年の月日をかけ、執念で貯めた資金は600万円に。ついにロサンゼルス行きの片道切符と、学生ビザを取得したのです。
1992年3月。いよいよ本場アメリカの医療に触れることができる。希望に胸を膨らませ、身一つで海を渡る準備はすべて整っていました。
しかし、人生というものは一筋縄ではいきません。いよいよ出発というその目前で、私の前に「想定外の大きな問題」が立ちはだかることになります。
(次回へ続く)
※本記事は、徒手療法大学公式サイトで連載中のコラムを当院の患者様向けに再構成したものです。より詳しい当時のエピソードや熱い想いについては、ぜひオリジナルの「学長コラム」もご覧ください。
🔗 徒手療法大学 学長コラム:
【学長コラム】私の原点(4)〜バブルの就職戦線を蹴り飛ばせ。アメリカ留学への親の反対と揺るがぬ決意〜