ミャンマーに行くと瞑想を習慣的に実践している人がとても多い。
だから、自然と瞑想の話になり、それが自分の瞑想のヒントになったりもする。
ぼくにとっては、こういう環境がとても心地よい。
瞑想では「気づき」を大切にする。
気づきがないと智慧も生じないからである。
しかし、瞑想をしていない人にとって気づきと言っても、何のことなのかチンプンカンプンかもしれない。
気づきとは読んで字のごとく、気づくことである。
それでは、何に気づくのか・・
それは、自分の心身の状態に気づくことである。
心には以下の2つのモードがある(ぼくの私見)。
- 妄想モード
- 現実モード
瞑想では妄想モードから現実モードへの切り替え訓練をおこなっている。
その時に気づきの力が必要となる。
なぜなら、自分の心の状態が妄想モードであることに気づかなければ、現実モードに切り替えようというアクションは起こらないからだ。
これは、「部屋が散らかっていることに気づいてから、整理整頓する」というアクションを起こすのに似ている。
何事も気づきがなければ、アクションは起こらない。
「気づいていない人」の心は妄想モードである。
テレビを見ている時、スマホを眺めている時、ご飯を食べている時、道を歩いている時・・・
しかし、「気づいている人」は違う。
これらのアクションが全て現実モードとなる。
はたから見ると同じに見えるが、中身は真逆である。
これは大きな違いである。
気づいていることができれば、自然と智慧が生じてくる。
だから、智慧というのはあくまでも気づくという行為によって生じる結果である。
追い求めるものではない。