おはようございます!今朝はさすがに長袖の上着を着てきました。雨も止んで昼間は晴れるそうですね。
朝の5時過ぎに車のクラクションの音が鳴り響いていた時がありました。おそらく、盗難防止装置が作動したのだと思います。
そのけたたましい音はしばらく鳴り響いていました。ぼくは既に起きていたのですが、睡眠中の人の多くは目を覚ましたのではないでしょうか。
音が鳴り始めてすぐに、それに対してイラっと(怒り)反応し、「朝っぱらから迷惑だなあ」と感じました。つまり、クラクションの音を騒音と判断したわけです。
しかし、その音を音そのものとして観察するよう意識したところ(つまり判断を加えないようにしたところ)、「イラっ」も「迷惑だなあ」も一瞬にして消えてなくなりました。
この時点でほんの数分前までは不快な騒音だったものが、単なる音(波動)としてのみ認識されたのです。
自分の意志で選択することで、騒音も単なる音となってしまいます。
今朝こんな記事を読みました。
最近たまに目にする内容です。幼稚園を作ろうと思ったら、地域住民の反対に遭い頓挫したとか・・・
当院の斜め向かいには小学校があります。今日は土曜日なので子供らの声は聞こえませんが、平日は元気に『おはようございます!』という子供らの声が聞こえていました。
昨日は放課後に何かの演奏を練習している音が聞こえてきました。そして、時には運動会の賑やかな音なども聞こえてきます。
ただ、ぼくは小学校から聞こえてくる音を騒音だとは感じていません。むしろ、彼らの元気な声を聞くことでエネルギーをもらっているような気さえしています。
しかし、上記のリンク先の記事にもあるように、かなり多くの(半数近く)の人が園児の声を騒音と判断しているようです。
このようなクレームが増えているというのは、日本人の心の余裕のなさを暗示しているように思えます。
以前、数十年ぶりに帰国された比丘の方が、今の日本は閉塞感が増していると仰っていましたが、まさに日本社会全体が閉塞感に包まれていっているのではないでしょうか。
そんなにぎすぎすした心で生活していても、ちっとも楽しくないのにね。
10月10日(火)~10月12日(木)はお休みです