おはようございます!今朝のトレーニングはスクワット4セット(+ディープスクワットとのスーパーセット)で終わり。もちろん、セット間の歩行瞑想もいつも通り。
道具も何も使わずに素手だけで、痛みを改善させることができるカイロプラクティックは最強である。しかも、感謝されてお金までいただける。カイロプラクティックに出会えることができた自分は本当にラッキーである。もし、カイロプラクティックに出会えていなかったらと思うとゾッとしてしまう。
— 榊原直樹 (@drsakakibara) 2019年5月30日
カイロプラクティックという言葉を初めて知ったのが、ぼくが19歳のとき。大学に入学してボディビル部に入部してしばらく経った頃である。
月刊ボディビルディングという超マニアックな月刊誌がある。最近は読んでいないが、今もあると思う。
ボディビル部では毎月この雑誌を部費で購入していた。ネットなどもなく密なボディビル情報が得られる数少ないソースだったのだ。ちなみに。、当時ようやくマッスル&フィットネスの日本語版が出始めたころ。アイアンマンはまだなかった。
だから、毎月この雑誌を読むのが至極の楽しみであった。まさに紙に穴が空くほど読んでいた。何度も読むものだから、内容を暗記してしまうほどであった。特に広告は毎月似たようなものが載っていたので、ほぼ完ぺきに覚えていたくらいだ。
カイロプラクティックは、月刊ボディビルディングで紹介されていたので、それで初めて知った。当初は「こういう治療法があるのか」くらいしか思わなかった。もちろん、「カイロプラクターになろう!」などと微塵も思わなかった。
しかし、大学卒業の2年ほど前から自らの身の処し方について考えるようになる。当時からサラリーマンという選択肢は100%いや、1000%なかった。
当時はバブルの真っ只中。また、所属していた研究室のOBが青田買いにやってくるぐらいなので就職先は選びたい放題であった。
ぼくの頭の中にあったのは、ただ「どんな場所、どんな環境でも生きていく実力を身に着けたい」つまり『地力』を養うことだけであった。
そのためにどうしたら良いかということだけを考えていた。そのためには、日本から一度離れなければならないと考えた。日本に居ながらにして、「どんな場所、どんな環境でも生きていく実力」は身につかないと思ったからだ。
ボディビルを始めて以来、スポーツ医学に関心を持っていた。その最先端を行く国はアメリカ。しかも、LAのベニスビーチはメッカオブボディビルディングである。本場アメリカでトレーニングしたいという強烈な思いがあった。だから、行き先は即決でアメリカのLA。よって、大学を卒業する2年前の時点で就職はせず、渡米することを決めていた。
ちなみに、今は日本中にゴールドジムがあるが、当時はゼロ。日本のトレーニング環境は決して良くはなかった。
当時のぼくは、トレーナーかカイロプラクターかで迷っていた。如何せん、情報がないので現地で様子を見てから決めることにした。予定通り卒業して3週間後にはLAに来ていた。
結局、カイロプラクターとしての道を選んだわけだが、今振り返るとこの選択をした自分が本当にラッキーであった。人生を賭けて情熱を注げるものに出会えたのだから、これ以上のラッキーはないと思っている。
これからもますますカイロプラクティック道を精進したいと思っている。
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