治療

治療は患者のためなのか、それとも自分のためなのか・・・

ぼくの父親は脳梗塞で寝たきりになり、その数年後に亡くなっています。その父親が亡くなる数か月前に一言、「もう死にたい」と言っていたのが未だに脳裏から離れません。

 

父は柔道で国体へ行くほどの屈強な男でした。弱音を吐いているところを一度たりとも聞いたことがありません。その父が死にたいというほどだから、余程苦しかったのだと思います。

 

この頃の父は半身が完全麻痺で自分では寝返りもうてない状態です。遺漏によって命をつないでいる状態でした。いわゆる延命治療です。

 

 

今朝、こんな記事を読みました。

 

「なぜ、医者は自分では受けない治療を施すのか」

 

我々カイロプラクターには直接関係はありませんが、命がかかった現場では延命治療を施すかどうかというのは、非常に大きな問題です。

 

医療を提供する側とそれを受ける側の考え方(哲学)によって、治療の方向性は大きく影響を受けます。

 

ただし、医療提供側の立場として注意すべき点が一つあると思います。それは、「その治療は患者のためなのか、それとも自分のためなのか」ということです。

 

自分のためというのは、つまり、医療者としての尊厳(プライド)を守りたいがための治療ということです。

 

もし、そのような気持ちが垣間見えたとしたら、自分がやっていること(やろうとしていること)を再考する必要があるかもしれません。

 

なぜなら、それは単なるエゴに過ぎないかもしれないからです。

 

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治療は患者のためなのか、それとも自分のためなのか・・・” への4件のフィードバック

  1. こんにちは。
    この件については 書きたい事が沢山ありますが、・・・
    もう 昼休みが終わってしまうので、また改めて。

  2. 再び こんにちは。(笑)
    昼休み終了まで時間が余りないので、今日も途中で終わりそうですが・・・。
    (時間がないので、不用意に誤った表現をしてしまうかも知れませんが、後で気がついたら いつか訂正しますね。)
    一言で「患者の為の医療」と言うのですが、様々な要素が有って、場面場面で逆の対応が患者の為になる事も有り、難しいですね。
    「胃瘻」などは一旦処置をしても 回復して食物の経口摂取が出来る様になれば外す事ができます。
    ただ、「胃瘻を外す」=「餓死に至る」という状態の場合は、病院の立場としては「外せません」という事になると思います。
    所謂「生命維持装置」の類は、(私の経験として)「一旦取り付けたら外す事が出来なくなりますが、どうされますか?」と聞かれました。
    自分が立ち会ったケースは、気管切開をして人工呼吸器を取り付ける処置でしたが、こういう事が必要になる様な容態になった後に 自立呼吸出来る状態に戻る可能性は 殆ど無い、という事を踏まえての説明か?と思いました。
    患者の(現在の)意思が確認できない時は、身内が判断する事を迫られますね。
    こういうケース以外にも、例えば「ガンの治療(手術)」等についても、医師は(その方の知識の範囲で)色々なパターンの説明をして、「さあ、この中から どれかを選ぶのは(100%)貴方(達)の意思で決めて下さい。」と言ってきます。
    或いは ガンの告知も、「全て 告知をしなさい。」という事だけは決めておいて、患者の心のメンテナンスまで考えて「どのように告知をしなさい。」という事は なおざりになっています。
    以前に、このあたりの事を痛烈に批判した医師(業界では異端児扱いみたい)の方の本を読みました。
    この方の知り合いの医師が、ご自分のお母さんが難しい病気になり、勤め先に入院させて治療の方針を決める際のエピソードが載っていました。
    担当の医師は、正に前に書いた通りに「メニューを示し、選択を迫った」そうです。
    どうしても自分の意見を言ってくれない主治医にたいして この方は、「もし 貴方のお母さんが同じ状況だったら、どうされなすかねぇ?」と聞かれたそうです。
    それに対しては自分の考えを言ってくれたので、(動揺するお母さんの気持ちを落ち着かせる為に)「先生も薦めて下さるから、この方法でやろうよ。」とお母さんに話しかけられたそうです。
    その時です!
    主治医は「いやいやいやいや、私は何にも薦めていませんよ!」と、強く言われたそうです。
    その方(友人の医師)も、勤め先の病院内の事ですし、もし何か有っても 発言を盾にとって 病院を告訴する などという気持ちは更々ありませんし、そんな事は同僚なら当然分かっている筈です。
    自分が重大な状況だと知って動揺するお母さんを、とにかく落ち着かせたいだけの事だったのに、この反応です。
    これが今の日本の平均的な病院のスタンスではないでしょうか。
    (少なくとも 私の今までの経験からは、「ウンウン」という内容の文章でした。)
    この著者の医師は 自分の例を出して、「自分が示した選択肢から患者が選んだ方法に対して 違う方法を薦める事も有る。また、選ばれた方法を最終的に採用した場合も『これは 最終的には私が決定した方法です。だから この事によって起こる結果は 全て私の責任です。』と話す。」そうです。
    読んでいる時も涙がこぼれましたが、今 書いていても泣けてきます。
    自分の母の時に、ガンの告知をする方法について すべてこちらに委ねられた事。(不幸な事に、色々な要素が重なって その役を妻がしなくてはならない状況になってしまった事。)
    延命の意味しかない(もしかしたら命を縮めたかもしれない)抗がん剤治療を「行わない」という選択肢を示してもらえていたら・・・、そして 母の年齢も考えた場合、そちらを選ぶ事を薦めてもらえていたら・・・。
    色々な思いが脳裏を駆け巡ります。
    余計な事を書いてしまいました。
    患者の為=治療の選択権を与える、ではないですよね。
    最近は「モンスターペイシェント」の問題も有るので、医師は ますます自分(病院)の責任にならない様に持っていこうとして、結果として 本当の意味で患者の為になる治療法が選択できない様な状況になってきている様な気がしている、今日この頃です。

    • コメントありがとうございます!

      いろいろテクニカルな問題はあるのだと思いますが、結局は我々一人一人が死に対する考えを明確に持つことが大切だと思います。

      死に際であたふたしないように私も心の準備を進めていきたいと思っております。

      また、治療の際にお話いただければ幸いです。

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